2012/10/27 得体の知れない何かに出会う

 『サウダーヂ』&『Playback』オールナイト・イベントの日は丁度、ハロウィンだったらしく、深夜の2時、3時を過ぎても渋谷ホテル街、キノハウス前の通りは途絶えることがなく、仮装をした人々で賑わっていた。セーラー服、幼稚園児の服、色とりどりのペインティングやマスク、ウサギの耳に波タイツのビキニ等々…仮装=コスプレと勘違いしている気がしたが、もうそんな違いはどうでもいいのだろう。とにかく2012年の日本のハロウィンは、ドンキホーテが大儲けしたのだろうということだけが分かった。

 

 それを見ながら思ったのは、みんな何かを真似るのが好きなのだな、ということで、何かを新しく作り出す、という恐ろしさの対局にあるクリエイティブさだった。どんなに奇抜であっても、それが通りから眺めていれば、すべてが均一に見える。新しいものを作り出す時の、あの自分の足元が歪み、世界にたった一人で屹立しているのような孤独。

 そんなことをわざわざする馬鹿がどこにいるんだ、とばかりに今日(こんにち)の世界は何かのイミテーションで溢れている。

 

 またそれは、何か躁に対しての希求のように見えた。言うまでもなく、躁の希求とは、鬱への沼地に引き込まれないための必死さとも言える。その二つは正反対に見え紙一重だ。3.11の震災から2年たち、そのような欲求が、普通に生活している人々の各所に現れ始めている証左とも言えるかもしれない。

で、何を言いたかったかと言うと、映画や表現の類は、その中間に位置するために存在する気がするのは僕だけだろうか。

 

 普通の感情、というのがどんな感情かは分からないが、少なくとも十代の頃の僕は、すべてが右へならえ、前向け右の暗黙の掛声に必至でついていくことに、発狂した気分になりながら、映画や本を、観たり、読み漁ったりすることで、バランスを取っていたことは確かだ。そして、それは既知の何かではなくって、何か自分の感情の新たな感覚を呼び覚ますような作業だった気がする。それは自分にとって新しくもあり、不気味でもあり、得体のしれない何かに出会うことに尽きた。

 

 初めて自覚的にミニ・シアターに行ったのは、高校2年生の時で、その時に見たのは、フェデリコ・フェリーニの『道』。とにかくジュリエッタ・マシーナの表情が圧倒的だった。老けているのか、幼さを装っているのか分からない、とにかく妙なバランスの顔と、白粉の跡が残る皺と、強い表情と、不意にその表情が崩れ、思わぬ笑顔が溢れる瞬間…とにかくそのモノクロームの画面に、ただただ惹きつけられたのを覚えている。

 

 思えばそれは18年後に『Playback』を観た感触が、ちょっとそれに近かったな、ということを思い出したのは、フェリーニだったらもっと豊かな仮装行列が生まれるだろうに、と一瞬思ったオールナイトの晩の、キノハウス前のコスプレ・ハロウィンの一群をみて思い出したことは心に留めておきたかったりする。

岩井