2012/10/25

 各所に電話やメール、取材の段取りなど。

 ぼくは「nobody」という映画雑誌に10年ぐらい関わっていて、だからいつもは取材する側、インタヴューする側。でも『Playback』に関しては、取材は別に受けないけれど、作品を観てもらう側だし、取材を設定する側にいる(実際ほとんどは岩井さんがやってくれてるけど!)。これはなんだかおかしな感じだ。正直に言えば、取材を設定する側の気遣いや心配なんてこれまでほとんど考えたことがなかった。けっこう大変だとわかった。また媒体さんのインタヴュー原稿を送ってもらって、目を通してチェックするなどいうのも、普段とは逆の立場であって、勉強になるというか、いろんなことが見えてくる。これはこれでおもしろい。取材する側とされる側の思惑が一致するなんてことは、あるようでないのかもしれない。いや、ないようであるのかもしれない。作品への愛情の持ち方が同じである方が気持ち悪いだろうし、その意味で『Playback』は、まさに多種多様な愛情を受け入れられるおおらかさというか、ふてぶてしさというか、そんなようなものを持ち得ているんじゃないかな、なんて思う。

 

 しかし、やっと観た『ライク・サムワン・イン・ラブ』も、ふてぶてしさでは天下一品なのだった。最初のシーンでは、妙な固さというか、ちょっと段取り感がむき出しすぎやしないか?と不安になったが、なんのことはない、それがそのまま、ほとんどコメディというかコミックの域にまで達するさまは、ブレイク・エドワーズやジャック・タチにも比肩しうるほどでまったくもってスリリング。

 と同時にこの作品は、とてつもないメロドラマでもあった。メロドラマは窓を介して生まれる。人々が誰かを見つめ、誰かを想うのは、窓を介してのみだ。手の届かない何か、誰かを窓から見つめるしかないという、その残酷さ。『ライク・サムワン・イン・ラブ』はメロドラマの精髄をむき出しにさせた映画だとも言えるんだろう。

 すべての人物たちがとんでもなく不幸なまま、唐突に迎えられるラスト。無人となったそのショットには、窓がある。もはやそこに鹿が現れることはない。しかし、窓だけは、ある。そして、よくわからないが抑え難いエモーションも、たしかにある。だから窓とはエモーションそのものなのだ、と気付く。そして『Playback』にもまた、そんな窓が確かにあるなと気付いた。

 そうそう、『Playback』最後の先行上映が、ついに27日(土)におこなわれます。ぜひふらりと足を運んでみてください。

松井