2013/4/24 たぶん本人が一番楽しい?アフタートークがありますよ。

 

 『Playback』のツイッターのタイムラインをみていて面白いのは、これもフィルムの動きと連動したゆっくりとしたリズムだったりする。フィルムの数も少ないし全国一斉公開とかできないので、ゆっくり順次全国を廻っていくわけだけと、それに併せてツイッターの感想も「わっ」て一杯でるんじゃなくて、着実に今観たって人が刻々といて、それがなんだか嬉しい。それは『Playback』って映画のリズムと同期している感じで、波長があってる気がするんだな、きっと。

 そうこうしているうちに一本のフィルムが東京に戻ってきていて、現在バウスシアターで上映中。

 初日の舞台挨拶で村上淳さんも言っていたけれど、全国を廻ってきたうちの一本が帰ってきた。それが毎晩、東京は吉祥寺のバウスシアターにて、5月3日の金曜日まで毎晩21時5分から廻り始める。

 それはなんだか感慨深いことだなって改めて思う。

 

×     ×     ×

 

 さて話は変わりますが、今僕は、5月11日からオーディトリウム渋谷で始まるCO2東京上映展2013の宣伝をしております。東京ではまだそれほど知られていない監督たちが宣伝に奮闘しているのですけど、思えば『やくたたず』もCO2助成で制作されて、それが『Playback』にも昇華されたのは、このブログを読んでいる方ならご存じだと思う。(そういえば東京で『やくたたず』最近やってないですね・・・そろそろやりたいなあ)

 その頃の三宅監督はこんなに初々しかったのだろうかねえ。今は体重も貫録もでてきまして、偉そうな感じだけど・・・というのは外見でそう思われがちかもしれないけど(三宅さん、嘘、冗談ですよ!)今だってひどく謙虚だなあと思うのは、劇場から出てきた観客の一人一人に真摯な回答をしている姿を何度も観ているからだろうと思う。映画を観た後に観客と話しをしたいか、したくないかは、作り手のタイプによって二つに別れるかもしれないけれど、三宅監督は多分前者で、そしてそれは彼の映画作りというのが、やっぱりそうやって観た映画について話すことから始まったのではないかなあと思って。

 というわけで、4月26(金)には上映後、一階カフェにて三宅監督とのアフタートークがあります。たぶん本人が一番楽しいのではないかと思いますが、それに劣らずお客さんも上映後のお喋りを楽しんでくれたら嬉しいです。詳細は下記の通り↓軽い気持ちでご参加ください。

 

 

*****************************************************************************

■4/26(金)『Playback』上映後23時ごろ開始

バウスシアター1Fカフェ「Lido Cafe」監督によるアフタートークを上映後に開催。

お茶でもお酒でも飲みながら、監督とざっくばらんにお話しましょう。

疑問、感想、なんでもどうぞ。

遅い時間なので終電をチェックのうえ、みなさまぜひご参加ください。

参加費はドリンク代のみです。

*****************************************************************************

 

 それから、こちらもどうぞ宜しくお願いします m(_ _)m

 

CO2東京上映展2013

 

 

 岩井

 

 

2013/1/13 東京でのロングラン上映もあと5回!~三宅唱監督本人が『Playback』を激賞するの巻~

 昨日、三宅監督から電話があって、何かと思ったら『Playback』を劇場で観直して、すげーよかった感動したって連絡だったんだけれど…それは監督だから激賞して当たり前なんですが…そうではなくって、フィルムの状態が、プリントしたばかりの時に観ていたので、オーディトリウムで10週間以上の上映をしてフィルムの状態が変わっていたのも一因としてあったようでした。
 それは一般的に摩耗、悪い言い方で言えば劣化していくものなんだけど、これを一概にだめとは言い切れないのがモノたる所以だろうと電話を切った後に思ったりしました。
 おそらくなんだけど、監督がそのフィルムを観た時に、何度となく上映してきたフィルムが与える変化が、自分の手から離れた一つの映画として切り離されて観れたというのが大きいのではないだろうか。と、書いてみてもこればかりは、映画が人の感情に何かを与える、その何かについては、いくら分析したってわかりっこないんですが。
 ただ、こういうことを考えると、フィルム上映がデジタル上映と違うのは、一つのモノが産まれて、そして天寿を全うするまで回転を続けるその営みであり、一度一度が技師さんの手によって上映されている、そのライブが一つの映画の上映といえることができるのかもしれない。
 勿論、音楽のライブ行かなくったって、CDで聴けばよいというように、映画館行かなくったってDVDで観ればよいという考え方もあるんですけどね。
 でも何かその場所に立ち会う、というのは作品の相対価値以上に記憶の中に大きく残っていくものだと思います。
 そこでしか感じれない何か、みたいなものが、絶対あるし、だから電話やメールがいくら発達しても人が人に会うという行為はおそらく消えないのだろうと思う。それは根源的に人が「淋しい」からであり、その感情だけは人間の中には永遠に残るもののように思う。
 そして、それは悪いことでないし、映画館の椅子に身を沈めて、その感情に自分が出会う時に、ある心地よさと厳しさを感じるのは僕だけなのでしょうか。
そんなこんなで、長らく続けてきた東京上映も18日まで後5回となりました(16日だけ休映なのでお間違えなく!)。
 今後の東京での上映は決まっていません。それこそフィルムなので、他の地域で上映しているときには上映できないので、今度やるのはずいぶん先になると思われます。
またその時にはフィルムの状態も変わっているでしょう。
 だから、今観たいと思った時にぜひ観に来ていただければと思います。
 僕も18日までにもう一度観に行かなきゃ!では劇場でお待ちしております。
岩井

2012/12/30 Playbackチーム関西に行く Part1

 Playbackチーム(男4人)で関西に行ってきた。12月19から23日まで三泊四日。もちろん遊びに行っていた訳ではない。関西の、これからの『Playback』公開に向けて作戦会議を行ってきた訳で。

 京都、大阪、名古屋と各劇場を巡り、劇場の方や上映を支えてくれる地元の人たちや店舗さんなど、様々な方とお会いしてきました。繰り返しますが、遊びに行った訳でなく、男4人で車で巡ってました。

 …というと、なんだが勇ましく、いささかホモセクシャルに聞こえますが、実際のところは、まずこれから上映する場所に行って、上映される劇場をみて、そしてこれからお世話になる皆さんに挨拶したいという気持ちが大きかった。その場所に行き、そして顔を合わせて話してみたいという当たり前のことだったんです。

 そして、本当に多くの、違う場所で映画について、熱心に考え、実際に行動している方々と話しをして、これがとにかく充実していました。東京くんだりからむさくるしい男どもがわらわら来て迷惑だろうな、と思っていたら、そんな素振りは皆さん一切見せず(そう思われていないか心配どす…)、暖かく迎えてくださり感謝しきりでした。
劇場のあるその街の風景、そしてそこに住んでいる人々の顔を見て、やはりその場所でないとダメな何かみたいなものがあって、やはりとにかく足を動かすことは重要だよな、行かないとダメだなと感じました。

 今、映画館はデジタル化の波にさらされていて大変なことになっているのですが、最新のDCP(デジタルシネマパッケージ)上映だと、郵送して上映素材を送るのではなく、データをサーバーからダウンロードして使うことになるそうで、なるほど、そしたら輸送費もいらないしかなり楽になるのだろうと思う。けれど、そうしたらいつ人と会えばよいのだろうな。電話とメールで、素材もダウンロードしていたら、誰にも合わずにそれができちゃうし、ほとんど自分が何をしているか分からなくなっちゃうんじゃないだろうか?

 もちろん便利になることはいいことだし、例えば自販機が出てきた時には、人のふれあいが無くなるみたいなことは言われたのかもしれない。でも僕だって自販機があればそれで買う。それは悪いことだとは思わなくって、ただその代わりにこんな風に人と一緒にいる時間も失われる、そのことには敏感でありたいな、と思う。
 だから、それを使う自由も、使わない自由もある限りにおいて、便利になるということは悪いことではない。
 デジタル上等!てなもんです。

 まあそんな訳で業界的には色々ありますが、Playbackは当面35ミリフィルムをせっせと各地域に送って、可能ならその地にみんなで赴いて、そこの美味しいものも頂き(!)、映画を観て下さったお客さんと話したりできたらなんて素敵なことだろう!そんな風に上映を続けてい
こうと思わせてくれる旅でした。
旅の詳しい内容については、ブログで各メンバーより語っていきますのでどうぞお楽しみに!
岩井

2012/12/16 新宿タワレコに行った件

 久しぶりのブログです。
 
 時事ネタとしては今日は選挙だったのですが、それにはあえて触れずにおきます。さて、みなさんは少し前、新宿のタワーレコードが改装されたのはご存知でしょうか。具体的にどんな風に変わったかと言うと、K-POPとアイドルコーナーが拡大され1フロアを占めるに到り、ROCK、HIP-HOP、JAZZ、TECHNO、民族音楽が1フロアに押し込められるような形になったのですね(最初はそこにAvan、Electronicaもあったのですが、さすがにという感じで上階のClassicに移動しました)。歴史的に言えば、圧倒的に厚みがあるジャンルたちが身を縮めるように居る姿に、そしてそれが新宿タワレコでなされていることに、店舗で音楽を買うという行為の終焉をみた思いがしたのですが、それは一言で言うと歴史の忘却とも言える。勿論、インターネットでは買うことができる音源は沢山あるのですが、それは検索しないとでてこないアーカイブなのでにわかには表に出てこない。一体彼らの音楽はどこにいったんだろうと、ふと店舗で立ち竦んでしまいました。
 
 それでも驚いたのは、久し振りに行ったからというのもあるのですが、大御所たちが新作を次々に発表していることです。少し前だとボブ・ディラン、ビーチ・ボーイズ、それから灰野敬二率いる不失者も矢継ぎ早に2枚CDを出した。非常階段も元気だし、なんとビル・フェイも新譜がでている!ブライアン・イーノがアンビエント回帰作を、スコット・ウォーカーも6年振りの新譜が、あとストーンズ、ニール・ヤングもまた元気な感じのがでていました。
 
 それらを試聴するとどれもが中々悪くないのです。というか、むしろ良い。何か確かにその人たちの音楽がある、という感じです。ほとんど時代とか、世間の評価とかは既に関係ない境地にいる人たちの音楽。老境を迎え、ただ自分の為に奏でられているような、根本が見える気がするのです。
 
 勿論、それらが目立ってみえるのは、圧倒的に数が少なくなった店舗で、セールス的に堅いから置きやすいというのはあるでしょう。ただ、それにしても少し老人が元気すぎやしないか!?と感じずにはいられませんでした。
 そこで、PostRock、AvanRockとか、少し前までは主流だった棚に行ってみると確かに新譜は色々出てはいます。僕はもうあまり詳しくないので、ほとんど知らないのですがポップをみると「トム・ヨークも絶賛する才能(10年前からコレありますが…)」とか「ダブ・ステップの現在形!」とか色々あるんですね。その中で試しに「マイブラ×メルツバウ×○○×○○(忘れた…)」みたいのを聞いてみました。
 
 おー確かにそんな感じなのです。音もデジタルでクリアなので、レイヤーがすごく緻密に重なっていて、物凄い轟音なんだけど、裏で奇麗な旋律が流れている。確かに!とは思うのですが、どうもそれが何か統合された音楽という気がしない。すごく整理されているというか、例えば、初めて「Loveless」を聞いた時の、音塊の渦のど真中にいるような衝撃はそこにはない。
 
 これは聞いている僕が、もう色んなことに驚かなくなっているというのもあるかもしれませんが、今こそ「新しい」と「古い」の境目が無いことは近年珍しい気がするのです。というか「新しい」ものを求めた挙句「古く」なるということはよくあることなんですが、もう新しいから、革新的だから、良いっていう時代じゃないよねって、なんかこれらを見回りながら思ったのです。
 
 もうこれなら、昔の名盤やリイシューを買い求めて生きていくこともできるのだろうし、映画で言えば、過去の名作を見続ければ、それだけであっという間に人生を楽しく過ごすこともできるだろうとも思います。
 とは言っても、現在生きている人は勿論いて、音楽も、そして映画も新しいものはどんどん作られています。作りやすさで言えば、昔よりずっとすぐに形にし易い時代になって、作られる量自体は増えているのだと思います。
それ自体は勿論、良いことだと僕は思います。ただ、それが単に「新しい」だけなく、かと言って今までの歴史を忘却するわけでもなく、「古い」ものに執着するわけでもなく、今「生まれつつあるもの」を作るのは、意外に本当に難しいことなのかもしれません。
 
 そして『Playback』は、その難しさに正面から挑んだ作品ではないか、「新しい」とか「古い」とかの価値に当て嵌まらない稀有な作品だ、というのは少し言いすぎな気もしますが、それは確かに一つあると思うのです。
 
 まあ、今日の選挙結果で色々と思うことが実はあったのと、タワレコに行った話から、強引に繋げてみた感じもしなくもないですが(書きたいことを書いてしまってスイマセン…)。
岩井

2012/11/18 今日はこんなかんじで

 やっぱり現場の人の話は面白いな、とこの前の城内さんのブログエントリを読んで思ったんだけど、やはり映画は複数で作られていることがとても重要というか、他の表現にはあまりないことだな、と思う。作家主義とは言わないまでも、映画について語る時に、監督がその映画を代表するというのが、一般的にまだあると思うけれど、そして、それは一面で正しいのだけれど、そうでない部分が映画には圧倒的にあって、それが実はフレームの中を実に豊かにしてるんだなーと普通に思う。

 

 ロケーションから、衣装から、カメラの位置から、そしてそこに生きている人間から、監督がすべてを決定するというよりは、その中から何かを選ぶということに近いのだと思う。そしてその選択肢を広げるために周りのスタッフ、そして俳優が動いているという風に考えると、映画ってほんとに何が中心にあるのか分からない。物語は確かにあるけど、この風景は、この映っている俳優の表情は、どこまで誰が仕組んだものなんてわからない。だから面白いなあと思う。

 

 逆にそんなことを考えさせない映画というものがあって、多分僕にとって、つまらない映画の定義ってそこにあるような気がする。物語がいくら魅力的でぐんぐんひきつけられても、そこに引っ掛かりを感じないと結局残らないものが多い。

 

 そんな意味で『Playback』は公開中に、ふいっと一人で行って一観客として、また観てみたいなと思うのです。…と何も考えずに普通に感想を書いてしまいました。

 

 いつも長めの文章になりがちなので、今日はこんな感じで気軽に終わらせます。

岩井

 

 

2012/11/13 Playback Pressについて

 現在「Playback」公開中に配っている<Playback Press vol.00>について少し書きます。

 これは映画を観てくれたお客様に、無料で配布して読んで頂いています。

 だから、宣伝とか集客効果として意味はあまりなく、無料だから特に儲かるわけでもない。

 

 では、こんなことをなぜやり始めたかというと(言い出したのは僕なのですが…)、この映画は、内側に加わって初めて知ったことだったのですが、ある商業映画と呼ばれる枠でもなく、かと言って自主映画のように身近な仲間を集めて撮ったわけでもない、非常にユニークな作られ方をしています。Playbackチームに参加して、彼らの言葉の端々に聞くうちに、それをなんとなく面白く感じていて、自分としても、その辺りの話を詳しく聞いてみたいというのがありました。そして、同じように映画を観た方にも面白く読んでもらえるのではないかと思ったのがきっかけです。

 

 具体的なことは、実際に記事を読んで頂ければと思いますが、それを知るにはまず、三宅監督と松井プロデューサーで2人で話をしてもらうのが早いと感じました。大体において、まずこの2人の関係がよく分からなかった。ただの友達のようでもあるし、監督とプロデューサーに見える時もある。三宅さんがチラシ代がなくて悲しそうな顔をしていると、松井さんがとりあえず俺出すよと言ってくれる…よく分からないけど、とにかくこの2人は同じくらいこの映画のことを好きで好きで堪らないのだな、ということだけは分かりました。

 

 初めて2人に会った時は、まだ「Playback」を作る前の、Nobodyのアップリンクでのイベントで、僕はアップリンクの現場担当で、Nobodyのイベント担当が松井さんでした。その時に「やくたたず」を上映することになり、三宅監督を連れてきたのですが、その時は2人共、坊主頭でした。そして、ずい分経ってPlaybackチームとして出会った時には、三宅監督は坊主のままで、松井さんは髪を伸ばしていました(今の状態はPressの写真をご覧下さい)。

 

 今考えるとその間に、常に一緒にいる状態で、2人共坊主って気持ち悪いからお前伸ばせよ、みたいなやりとりがあったんじゃないかと思います。で、三宅「俺が髪伸ばすなんてありえねー、ありえねー!」と愚図って、松井「分かった、分かった。俺が伸ばすよ」みたいな邂逅がきっとあったんだろう、と…まあ、これは僕の想像で実際は違うかもしれないし、違うにせよ、別にそんなこと知りたくもないので聞かないのですが、何かPlaybackチームとして、暫く同じ舟に乗り出す決意を固めたのと、それは関係しているのではないかと邪見してしまうのです。まあ、これは本当にどうでもいい話ですが。

 

 話は逸れましたが、映画の作られ方って一つでないよねってことで、既存のやり方で撮れなければ、違うやり方を考える。で、それはルールがあるわけではなくって、その時の出会いやタイミングによっていくらでも変わりうる。でもその時に何か、ある選択をして、それを信じて進むということ。

 

 それはシステムを構築していく全体主義的な方法論とは、真逆のやり方というか、今この場でできることをするという当たり前のことなんじゃないかと。

 

 だからみんな好きにやりゃーいんじゃないかと思うわけです。

 

 デモのように不特定多数の人数で集まって、輪になるのも大事かもしれないが、ある身近な人間と何かを始めることをまずは初めてみたらいいんじゃないか。勿論、そこには欠点もあるかもしれませんが、そこでしか為し得ない確かさのようなものもきっとあると思うんです。そして、その確かさこそが、全体として実質ある実りを産む始まりだと思っています。

 

 ただ「Playback」にそんなあれやこれやが映っているのか、いないのか分かりません。影響があるのかどうかもわからん。映画はそんな事情とは関係なく一本の作品として現在、日々上映されている。

 

そして、それこそが正にいいなーと思うのです。

 

岩井

 

2012/11/4 10年後にまた会おう

 公開までいよいよ一週間を切り、落ち着かない気分が続いている。

 やることは減ったので、他の映画でも観に行こうかと思うけど、あまりそんな気分にならない。

 

 何かやり残したことは無いか、これからはできることは無いかと考えてしまう。

 実際に宣伝で、あと一週間でできることは少ないし、大手の配給宣伝の人と話していても、その手の映画は基本的に公開一か月前で、その映画の宣伝の仕事は終って、他の作品に移るそうだ。確かにやることは減るし、そうやって続けて手を打っていかなければならない事情も分かるけれど、なんだかひどく物足りないだろうな、と考えてしまう。

 というのは僕が劇場で働いていた経験があるからなのかもしれない。実際に映画が公開されて、初日から何週間も毎日お客さんの映画館に入っていく顔、出ていく顔をみていたから、そこまで見届けたい気持ちがある。そこで何かが初めて分かるようなことがあったりする。

 よく思い出すのは、映画が終わって、客電が上がり、みんなが席を立っても身じろぎもせず、ずっとスクリーンを見つめているような人がいる。入れ替えの時間も限られているので、席を立ってもらわなければならないけど、そういった人を見ているとどうしても声を掛けるのが憚られるような気持ちで、苦しくなったことが時折あった。

と、これは一方で呑気な気持ちなのかもしれない。映画館としては、一日何クールもまわして回収しなければならないし、無駄な時間は作りたくない。バイトの人も、早くお客さんを出して、昼飯に出してあげなくてはならない、とかそういう他の理由もあるもの理解できる。

 宣伝も映画館も、商売でやっているし、みんな生きていかなければならない。

 それは前提としてある上でも、もう少し違うやり方ができないのか、とはずっと考えてきたことだった。

 

 会社を辞めて、昨年、参加させてもらった『サウダーヂ』や、今やっている『Playback』はそういったことが一つづつ納得できる形で進められているようなところがあり、嬉しい。

 そして、そこにいる仲間は、志が高い(みんな金は無いけれど…)。そこに自分なんかが加わるのは、恥ずかしくなるくらいだけど、これから映画を撮り続けるために、今まささに地べたで泥の中を格闘している彼らの姿をみていると、自分にも少しくらい何かできることはないかと考えて、まだ映画に関わり続けている。

 そういえば、先週までユーロスペースで公開していた『ひとつの歌』の監督の杉田協士くんに久し振りにあった。

 彼は、映画美学校の5期生で僕も同期だった。同じく今オーディトリウム渋谷で公開している『5windows』の瀬田なつきさんも同期。もう10年以上前の話だれど、前の城内さんのブログにもあったが、別々の場所にいるにも関わらず、そうやって10年後まで映画という現場で出会うのはとても嬉しい。

 

 そして10年後に誰とまたどんな風に再会するのか。

 そんなことを考えた、冬の始まりでした。

 

岩井

 

 

2012/10/27 得体の知れない何かに出会う

 『サウダーヂ』&『Playback』オールナイト・イベントの日は丁度、ハロウィンだったらしく、深夜の2時、3時を過ぎても渋谷ホテル街、キノハウス前の通りは途絶えることがなく、仮装をした人々で賑わっていた。セーラー服、幼稚園児の服、色とりどりのペインティングやマスク、ウサギの耳に波タイツのビキニ等々…仮装=コスプレと勘違いしている気がしたが、もうそんな違いはどうでもいいのだろう。とにかく2012年の日本のハロウィンは、ドンキホーテが大儲けしたのだろうということだけが分かった。

 

 それを見ながら思ったのは、みんな何かを真似るのが好きなのだな、ということで、何かを新しく作り出す、という恐ろしさの対局にあるクリエイティブさだった。どんなに奇抜であっても、それが通りから眺めていれば、すべてが均一に見える。新しいものを作り出す時の、あの自分の足元が歪み、世界にたった一人で屹立しているのような孤独。

 そんなことをわざわざする馬鹿がどこにいるんだ、とばかりに今日(こんにち)の世界は何かのイミテーションで溢れている。

 

 またそれは、何か躁に対しての希求のように見えた。言うまでもなく、躁の希求とは、鬱への沼地に引き込まれないための必死さとも言える。その二つは正反対に見え紙一重だ。3.11の震災から2年たち、そのような欲求が、普通に生活している人々の各所に現れ始めている証左とも言えるかもしれない。

 で、何を言いたかったかと言うと、映画や表現の類は、その中間に位置するために存在する気がするのは僕だけだろうか。

 

 普通の感情、というのがどんな感情かは分からないが、少なくとも十代の頃の僕は、すべてが右へならえ、前向け右の暗黙の掛声に必至でついていくことに、発狂した気分になりながら、映画や本を、観たり、読み漁ったりすることで、バランスを取っていたことは確かだ。そして、それは既知の何かではなくって、何か自分の感情の新たな感覚を呼び覚ますような作業だった気がする。それは自分にとって新しくもあり、不気味でもあり、得体のしれない何かに出会うことに尽きた。

 

 初めて自覚的にミニ・シアターに行ったのは、高校2年生の時で、その時に見たのは、フェデリコ・フェリーニの『道』。とにかくジュリエッタ・マシーナの表情が圧倒的だった。老けているのか、幼さを装っているのか分からない、とにかく妙なバランスの顔と、白粉の跡が残る皺と、強い表情と、不意にその表情が崩れ、思わぬ笑顔が溢れる瞬間…とにかくそのモノクロームの画面に、ただただ惹きつけられたのを覚えている。

 

 思えばそれは18年後に『Playback』を観た感触が、ちょっとそれに近かったな、ということを思い出したのは、フェリーニだったらもっと豊かな仮装行列が生まれるだろうに、と一瞬思ったオールナイトの晩の、キノハウス前のコスプレ・ハロウィンの一群をみて思い出したことは心に留めておきたかったりする。

岩井

2012/10/22

先日、主演の村上淳さんの取材日を設けて頂いて、色々な媒体の方に取材をしてもらった。その時印象的だったのは、投げかけられる質問の一つ一つに、真剣に、その媒体に合わせて丁寧に回答をしていた村上さんの姿勢だった。
 ほぼ丸一日の取材だったけれど、疲れたところも一切みせず、この映画に対する発言の一つ一つが愛情に満ちていて、また、それをきちんと自分の言葉を慎重に選びながら発言する村上さんの姿勢をみて、改めて襟が正されるような気分になった。
 ある映画が生まれて公開される、というのは一人の子供が生まれたことに近いような気が、『Playback』に関わって殊更強く思っている。それは例えば名前をつけるようにタイトルを決め、行く学校を決めてあげるように劇場を決め、社会に受け入れて貰えるように紹介の言葉が探したりすることの一つ一つがなんだけど。
 ただ難しいのは良い映画に限って、簡単に言葉にすることができないから、「とりあえず一回観て」と言いたいのだけれど、知らない人にそう言うわけもいかず、違う言葉を探すのだが、本当にいつも難しい。
 この映画の宣伝に加わった時に、三宅監督、松井さんと三日間くらいかなり集中的に喋ってようやくそれが形になり始めた時はやはり嬉しかった。ようやく子供に着せる服が決まったみたいな気分なのかな。(子供いないから分らないけど)
 これから、いよいよ公開だけれども、映画が観られることで、一杯言葉が増えればよいと思う。
 監督の三宅さんは、公開前から欲求不満の子供のように、映画に何か言ってくれることを求めていて、傍からみると少し可笑しいが、もう少し待ってみんなが見てくれれば、それは自然とでてくるんじゃないかなと思っている。公開中、オーディトリウムで映画を観て、下のカフェに監督がいたりしたら、どうぞ皆さん、気軽に話しかけてあげてください。見た目はごついが、意外と話したがりですので(笑)
 それと、村上淳さんの記事やインタビューも今月末から各所で出始めます。
随時お知らせして参りますので、こちらもどうぞお見逃しなく。
岩井

2012/10/20

夕刻よりオーディトリウム階下のカフェ・テオにて恒例の打ち合わせ。三宅監督、松井さん、宣伝も手伝ってくれているラインPの城内さんと。入り口付近では、それと別に制作部の山科君がストイックにチラシを撒いている。テオの正面には、『Playback』のポスターも貼ってあり、いつの間にか一階付近を『Playback』が勝手に占拠しているかのよう。。。
 打ち合わせは、公開20日後となった現在にできることのあれこれ。
 宣伝活動は、どこまでやればよいというものでもないし、逆にすべてができるというわけでもない。その意味で、果てしない気分に誰もがなっていて、灰皿の吸殻だけが増えていく気すらする。いや、だからこそ何かしてやろうとも思ってもいて、その意味で、映画というのは最後の最後まで持久戦だ。地味なあれこれがすべてと言ってもよい。映画を作るところから公開をすることまで、その細かい段取りのすべてが映画だということを世のどれだけの人が知っているのだろうな。
 その意味でこの映画には、三宅監督、松井Pは、2年間の時間のほとんどをこれに費やしている。いつも喧嘩ばかりしている二人だが、その時間は相当に貴重なものに違いなく、いつかその辺りをじっくり聞いてみたいものだと思う。
 その後、新宿で所用を済ませ、バルト9で『アウトレイジ ビヨンド』を遅ればせながら観る。前作が役者の映画だとすれば、今回はシナリオの映画だ。展開に継ぐ展開を常に意識しているという意味で、前作よりアクションは少ないが、むしろ近年のハリウッド的にシナリオが練られており、娯楽として優れてはいる。ただ、続編だからなのだろうか。ヤクザ役の俳優の演技が(特に前作に出演していない俳優の演技が)前作の世界観のそれをなぞっている気がしたのだった。初めて出てくるのに、何故か既視感を持ってしまうのは、作品にとって少し不幸なことのように思う。
 しかし、小日向文世演じる警官や、加瀬亮演じる石原などをみるにつけ、男が果たしてなんのために生きているのかわからなくなり、それに気づいている大友も、結局どうしてよいのかわからず抗争に参加してしまうのは、自分を省みても胸に迫る。全体が小日向が作ったルールに乗せられて、各々の欲望の原理によって稼動してしまう抗争に、あのラストで決着をつけるというのは小気味がよく納得できる。ただそこからの大友の行く末はもう決まっているだろうし、それを見届けに多分、次作も映画館に行くのだろうと思いますが。。。
岩井